隠れていたキャラクター
毎年、季節の変わり目になると出てくる痛みが、
1か月早く出てきてしまった。
身体の痛みは何かのメッセージだと思うが、
それが何か、今はよく分からない。
でも、自分が惨めだという劇場ストーリーを
また語っているのに気づいて、
もう必要ないのに、マインドの癖ってすごいな~と思った。
ただ、今まで隠したかった自分、クレイジーな女性性と男性性が、
いつの間にか外に出てきて、
楽しそうにしているのに気がついた。
その人達と一緒に、外側で楽しんでくれている存在にも気がついて、
受け入れてくれることが嬉しくて、
その存在とともにシンクロしている時、
彼らがとても喜んでいるのを感じた。
無意識の領域から浮かんできたもの達を歓迎して、
お祝いして、感謝とともに
旅立ちを見送ろう。
今ここにいる感覚
のんびり歩いているつもりだったのに、
いつの間にか汗をかいて、どんどん冷えて寒くなってきた。
もう帰ろうと思っているのに、なぜか足が歩き続けている。
身体の声より、マインドの声を優先しているのか、
帰る道をあれこれ考えながら歩いていると、
どんどん呼吸が苦しくなってきた。
考え事をしていると、呼吸のリズムが崩れて、
気づかないうちに、呼吸が浅くなっていくようだった。
吸う息と吐く息を意識しながら、呼吸の出入りを観ていたら
少しずつ酸欠状態だったのが、元に戻ってきた。
自然な呼吸のリズムを感じて、呼吸が楽になってくると、
何だか、身体がとても喜んでいるように思えた。
呼吸するのは当たり前すぎて、なかなか気づきが向かないけれど、
身体はちゃんと、必要なメッセージを送ってくれているんだね。
いつも命をつないでくれている身体に、ありがとう。
習慣になっていたことを手放す
日常生活の中で、いつのまにか習慣になっていたこと、
当たり前のようにしていたことが急に出来なくなってしまった。
途方に暮れながらも、
いつもと違う道を歩いていたら、
かわいくて、丸っこい葉っぱの塊をつけた木に出会った。
初めて出会った木に、そっと触ってみた。
日差しを浴びて、温かくて、どっしりとした感触。
木を触ると、やっぱり安心するのだなぁと改めて思った。
そして、習慣化していたことに、
自分がどれだけ同一化していたかに気がついた。
いつもと違う道を歩いて、
初めて出会った木に触ってみたら、
八方ふさがりな感じになっていた状況でも、
光が射しているところがあるのだと
少し明るい気持ちになれた。
ありがとう。感謝です。
木と友達になる
木は、人間のエネルギーをただ感じて一緒にいてくれる。
ネガティブな感情も、ポジティブな感情も
ただ同じエネルギーとして受け取ってくれる。
ずっと木に触ってみたかったけれど、なかなか触れなかった。
誰とも話したくなくなって、
一人で途方に暮れていた時、
「木と友達になってみたら?」と言われて、
最初は、木と友達になれる訳ないと思っていた。
でも、木のそばに行く度に、緊張しながらも
少しだけ触れるようになって、
心の中で、「いつもありがとう、触らせてくれて」
と挨拶も出来るようになったいった。
あれから約2年が過ぎた。
今日も木に触っていたら、温かくて優しくて
どんなに心細い気持ちでいても、
木に触れている手から安心感が伝わってくる。
「大丈夫だよ」っていう感じ。
「今の自分のままで大丈夫だよ」って言っているみたいだ。
友達になれたかな、、、
「いつも、ありがとう」
未知なる領域に向かって
約1年ぶりに、長い夢を見続け、目が覚めたかのごとく、
またブログを書きたくなった。
外側での動きを止めて、内側へ入るワークを続けていた。
内側深くへ入るには、一人の時間が必要だった。
そして、内側の未知なる領域へ足を踏み入れていくと、
今まで歩いてきた道のりまでも見失う感じとなった。
それでも分からないスペースに居続けていたら、
どれだけ怖いか、不安か、逃げたいかにも気がついた。
そういう感情さえ、やって来るに任せていたら、
ある時、突然、また瞑想がしたくなって、
思いっきり内側のカオスなエネルギーを外に向けて発散させてみた。
そうしたら、感情の塊が溶けたみたいになって、
たくさんの涙とともに出てきて、何かが旅立って行った。
それは、今まで私を守ってくれていた者たち。
どうもありがとう。
感謝の気持ちが、勇気や自己信頼へと変化している感じだ。
未知なる領域へと、さらに深く入って行こうと思う。
ご先祖様から受け継いだもの
子どもの頃、家族特有のルールがあって、
それを「あなたもやりなさい」と
暗黙のうちに要求されてきたような気がする。
それが私達子どもの為になるのだから、という理由で。
家族達が、苦しい状況になっているのを見ると、
私に何か、助けてあげられることはないかと思い、
自分の決定権まで譲り渡して、自分の存在をないがしろにしていた。
家族達の内側に狂気を感じると、
自分の中にも同じような狂気というDNAがあるのではないかと思い、
そこから抜け出せなくなってしまったら、どうしよう、、
そんな恐怖すらも感じていた。
ずいぶんと月日が経っているのに、
時折、その頃に感じていた、混沌としたものがやって来て苦しくなる。
でも、そんな自分のパターンに、ようやく気づきの光が当たり始めた。
そして、必要のなくなったものを手放していくというプロセスが
ようやく始まろうとしている。
私は何と戦っているのか
時々、訳もなく重苦しい気持ちがやって来る。
自分は役に立たない人間だ、
何もしてあげることが出来ない、
自分が無能で役に立たないから、
自分は生きている資格がない、、
しかし、本当にそうなのか、、、
私は自分をだましているのではないか、という想いが降りてきた。
もしかしたら、自分は何も出来ないという設定にしておけば、
自分の人生の責任を負わずに済むから、
その分を誰か他の人に肩代わりしてもらう為の、
無意識の口実だったのではないか、、
自分で書いていてもコワい裏舞台がちらちらし始めた。
それは、遡れば子どもの頃、
親のコントロールから逃れる為に、親の期待から逃れる為に、
自らを「無能者」とすることで、生き延びてきたのではないのだろうか。
いつの間にか、「無能で役に立たない私」というキャラクターを
磨き上げて、生きてきてしまったように思えてきた。
でも社会に出てから、そのキャラクターを更新しなかったので、悲惨な結果となった。
そこで、今度はそのキャラクターを使って、自らが他人をコントロールするという手段に切り替えたのかもしれない、、マインドがやたら活発化する。
勝手に作り上げたキャラクターは、本当はもう必要ないのに、
いつまでそれにしがみついているつもりなのか、、
戦うものなど、もう何もないのにね。